琉球古典音楽とは
1. 琉球古典芸能の起源
沖縄は、西暦1429年から1879年(明治12年)までの450年間、琉球と呼ばれる独立王国でした。
東アジアの小国であった琉球は、超大国であった明(みん、現在の中国)に王国として認めてもらい(冊封 さっぽう)、当時、海禁策(一種の鎖国政策)を取っていた明の代わりに、東南アジア諸国の胡椒や漢方薬の原料となる蘇木(すおう)などの産品を明に持ち込むというような中継貿易国として盛んに交易(朝貢貿易 ちょうこうぼうえき)を行い、独立国を維持しました。
明の冊封制度に応じた国々(朝貢国と言われ、朝鮮、ベトナム、タイ等)には、自国の国王が代わるたびに、中国皇帝から冊封使(さっぽうし)が派遣されました。琉球王国は450年の間に24回の冊封を受けました。
冊封の儀式では、冊封使以下400~500人が琉球を訪れ、5か月ないし8か月滞在しましたので、琉球王国にとって、彼らを受け入れることは最大の外交行事でした。踊奉行(をぅどぅいぶじょー)という国の役職を設けて、冊封使をもてなすための芸能の指導と総監督に当たらせました。
冊封使一行が乗ってくる船は、中国皇帝から賜る冠や衣服が積まれていたことから御冠船(うくゎんしん)と呼ばれ、使者たちをもてなすために首里城で披露される音楽や舞踊や劇は御冠船踊(うくゎんしんをぅどぅい)と呼ばれるようになりました。
2. 玉城朝薫の登場と組踊
1719年、時の尚敬王の冊封使を迎える宴(戌の御冠船)では、踊奉行玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん、1684~1734)が創作した「組踊 くみをぅどぅい 歌三線(音楽)、唱え(せりふ)、踊り(舞踊)を総合した楽劇」として、「二童敵討 にどうてぃちうち」と「執心鐘入 しゅうしんかねいり」が上演されました。玉城朝薫は、他に「銘刈子 めかるしー」、「女物狂 おんなものぐるい」、「孝行之巻 こうこうのまき」という作品を残し、これらは「朝薫の五番」と称されています。朝薫の組踊には、当時の大和(日本)の能や歌舞伎といった芸能の影響が色濃く見られ、朝薫が参考にした原作と朝薫作の表現手法の違いの中に、「朝薫的なもの」、「沖縄的な解釈」といった個性や独自性を見ることができます。朝薫以外の作者による組踊の作品としては、平敷屋朝敏(へしちや ちょうびん)の「手水の縁 てみずのえん」は特に有名で、現代でもよく上演されています。
組踊は1972(昭和47)年に国指定重要無形文化財に指定されました。
3.江戸上りと琉球古典芸能の発達
琉球は、1609年から1879年(明治2年)までの270年間、薩摩藩(現鹿児島県)の支配下にありました。明との朝貢関係(主従関係)は維持しながら、薩摩を通じて徳川にも忠誠を誓っていました。薩摩藩には、毎年春に年頭使という使者を派遣し、また慶弔事が起こった場合には特使を派遣する慣わしになっておりました。その際の儀式や、琉球に派遣された薩摩役人の宴席などで、琉球芸能は披露されました。
さらに、琉球からは、徳川将軍が代わるたびに慶賀使という使者、琉球王が代わるたびに謝恩使という使者を江戸に派遣するようになりました。これを江戸上りと称し、約220年の間に18回行われました。その際にも同じように琉球芸能が披露されました。このような事情から、薩摩上り及び江戸上りは、当時の琉球古典芸能の発展に大きな影響を与えたと考えられます。先の玉城朝薫も、薩摩・江戸を計7度も往来しています。
そのほかに、宮廷音楽として路次楽(ろじがく 中国から伝えられた道中楽、首里城内での儀式や国王が場外へ出かけるとき、また江戸上りの際に行列をしながら演奏した)や御座楽(うざがく 中国から伝えられたもので野外演奏の路次楽に対し、室内楽である。江戸上りや冊封使の歓待のために演奏された)があります。今日では、これらの芸能を総称し、琉球古典芸能と呼んでいます。
4.歌・三線の系譜
芸能の音楽部門の中心は歌・三線ですが、後々には、筝や笛、胡弓、太鼓なども伴奏楽器に加えて展開されてきました。
さて、琉球古典音楽の祖は、17世紀に登場した湛水親方(たんすいうぇーかた、幸地賢忠)(1623~1683)とされています。湛水親方は、それまでの優れた技法をまとめて洗練させました。湛水の後に沢岻良沢(たくし りょうたく)、新里朝住(しんざと ちょうじゅう)、照喜名聞覚(てるきな もんがく)といった人物が登場しますが、聞覚の弟子の屋嘉比朝寄(やかび ちょうき、1716~1775)が、湛水以後の芸風を整理し、古い湛水流に対する、当世風の流派「当流 とうりゅう」を創設しました。屋嘉比朝寄は、中国の楽譜「工尺譜 こうせきふ」にならって「工六四 くるるんしー」という楽譜を編み出したといわれています。
やがて知念績高(ちねん せきこう、1726~1828)があらわれ、豊かな感性と広い知識を背景に、楽譜「工工四 くんくんしー」を考案したといわれています。
さらに、知念績高の高弟に安冨祖正元(あふそ せいげん、1785~1865)と野村安趙(のむら あんちょう、1805~1872)という逸材があらわれ、それぞれ現在につながる安冨祖流と野村流を確立し、現在に伝統を継承しています。
1867年、琉球王朝最後の国王尚泰は、野村安趙や松村真信(後に野村流松村統絃会に発展)らに命じて「工工四」の編纂を命じました。野村安趙らは3回の改定を経て約3年もの年月を費やし1869年(明治2年)に完成させました。
いわゆる「欽定工工四 きんていくんくんしー」あるいは「御拝領工工四 ぐふぇーりょうくんくんしー」と呼ばれているものです。第2回目の改定においては罫線を引いて碁盤目をつくり、第3回目の改定においては人間の脈拍を基準に演奏速度を表すことにしたという記録があるそうです。
5.野村流の系譜
野村流音楽協会の初代会長となった伊差川世瑞(いさがわ せいずい、明治5年~昭和12年)と世禮國男(せれい くにお、明治30年~昭和25年)により、昭和10年、声楽譜付の工工四上巻が編纂・発刊されました。翌11年には中巻が編纂・発刊され、伊差川世瑞没年の12年には下巻が編纂・発刊されました。録音機器のない時代に、伊佐川世瑞が繰り返し歌い、これを世禮國男が採譜したということです。声楽譜付「工工四」の普及により、それまでの口伝(くでん)による教授法から自身による学習が可能になり、野村流は、学習者の数や地域的に、瞬く間に広がりを見せるようになりました。
現在、古典音楽で流派と呼ばれているのは、安冨祖流、野村流、湛水流の3つで、安冨祖流に2団体、野村流に4団体、湛水流に2団体があり活動中です。
琉球古典音楽野村流保存会(旧、野村流古典音楽保存会)は、1955年(昭和30年)に、野村流音楽協会(大正13年結成)から分離して創設されました。
琉球古典音楽は、2000年(平成12年)に国指定重要無形文化財に指定されています。
歌三線の国指定重要無形文化財「各個認定」保持者(人間国宝)として、「琉球古典音楽」に島袋正雄氏(野村流)、照喜名朝一氏(安冨祖流)、「組踊音楽歌三線」に城間徳太郎氏 (野村流)、西江喜春氏 (安冨祖流)が認定されています。
参考(引用)文献
① 犬飼公之『琉球組踊 玉城朝薫の世界』(2004)瑞木書房。
② 鄔揚華『徐葆光「奉使琉球詩 舶中集」詳解』(2010) 出版舎Mugen。
③ 大湾清之『琉球古典音楽の表層』(2002) アドバイザー。
④ 勝連繁雄『わかりやすい歌三線の世界~古典の魂』(1996)ゆい出版。
⑤ 勝連繁雄『組踊の世界』(2003) ゆい出版。
⑥ 新城亘「琉球古典音楽安冨祖流の研究」(2006)『沖縄県立芸術大学博士学位論文集』。
⑦ 高良倉吉『琉球王国』(1993) 岩波書店。
⑧ 富原守清『琉球音楽考』(1973) 琉球文化社。
⑨ 『野村流古典音楽保存会 創立45年周年記念誌』(2000) 野村流古典音楽保存会。
⑩ 『野村流古典音楽保存会 創立55年周年記念誌』(2011) 野村流古典音楽保存会。
⑪ 浜下武志『沖縄入門-アジアをつなぐ海域構想』(2000)筑摩書房。
⑫ 文化庁ホームページ。
⑬ 外間守善『沖縄の歴史と文化』(1986)中央公論社。
⑭ 宮城栄昌『琉球使者の江戸上り』(1982) 第一書房。
⑮ 矢野輝雄『組踊への招待』(2001) 琉球新報社。